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米良山(西米良村)と菊池の話


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毎日花のブロブ記事ですので、たまには違った記事をと( ^ω^)・・・笑

日本には家紋が存在します。

日本特有の文化の1つでもある家紋、血統、家柄等、様々なものを表すものとして用いられてきました。

我家はこの『丸に並び鷹の羽』です。

この家紋は熊本県の菊池一族から引き継がれてきたものと認識しております。

今日は菊池一族と米良氏について少しばかりご紹介したいと思います。

先日、書庫の中を整理していましたらこんなものが出てきました。
米良山(西米良村)と菊池の話_c0307468_17302311.jpg
私が父から貰ったものということだけ記憶しているのですが、貰ったことすら忘れていましたw 誰が書いたものか分かりません。

私の記憶では『米良○○』?多分、関東や北海道?で先生をされて居られた方で既に亡くなられて居られる方の親族を探されている御仁か?

もう一件は米良家の先祖を調べられている方(県外の方)から連絡があったという父の話

記憶が定かではないw

この大昔の家系図と文面が何故父の手に渡ってきたかは謎です。

家系図は書き込めませんが、ここに書かれている事をPCに入れ込みましたのでご紹介します。

ただ昔の方が書かれているのと難しく読み取りにくい字もありましたので文字が間違えているかもしれませんw
米良山(西米良村)と菊池の話_c0307468_17302702.jpg
先ず、米良氏について

菊池氏を中心とせる米良史

米良家の祖先は菊池氏である
文亀・永正・の頃、菊池第二十二代の主、肥後守武運(たけゆき)は一族の宇土弾正為光、等の叛逆から菊池城が陥落し、
国内は大乱となった。武運は菊池家の断絶をおそれ、一子重次を舎弟重房に托し米良の山中に落し、自らは、肥前高木に渡って再挙を計った。

米良の一統は、この幼主を迎え輔育し、この地に家をなした。
幼主は、米良山銀鏡に居城し、菊池をかくし、天姓米良を稲した。米良石見守重次と名乗った。

重次は武略に富んで良将であった。一族を率いて米良山の外囲四方を攻略した。
重次から三代目重治は居城し在城二世。次いで重良は天正年間中再び銀鏡に移り、その子重隆まで居城した。
重良・重隆は戦国時代に米良の主となり愈々、武を四輪に輝かせた。
西は相良と相対し、北部に三田井氏と手を取り肥後進出を企て、東北は延岡の高橋と相対した。南は土持・伊東・島津と相折衝し、遂にこの四隣の大敵を一歩も米良山に入れなかった。

重隆は慶長年間上洛して、秀吉・秀頼に謁し、鷹巣山の番職の元に巣山頭として米良山を安堵された。
次で豊臣家滅亡後、重隆は再上洛、徳川家康に謁した。
家康は菊池の名族を惜んで米良山を元どおり安堵された。
家光の時、米良家は無高なれども表交代寄合の家格に列した。
これより米良家は五年に一度江戸に参勤することになり格式も大名をもって遇され、天下直参旗本の家格であった。
ことに、米良家一族は血筋正しい名門の後裔というので多少の差閣はあったが、全部城内に於て、米良様を親として元服の礼を挙げ、大小裃を許され、士分を以て遇されたのである。

 当時の御墨付きをもって米良領の大略を述べれば
東は佐土原領境山神杉より。西は球磨領横谷迄八里余。南は球磨領境鉢の元より。北は椎葉山女夫谷迄五里。面積実に四十方里に及んだ。
この山間の斜面を実測したなら相当の広さに及ぶ。このうちに高巣山として、
一、木浦 二、勘如来(上米良かんめら) 三、中の又の三ヶ所を指定されたのである。
米良家は御墨付でも無高である程、それ程内情も困難であった。
家臣は平素は家にあって山畑を開き、農に従事し、方々文を修め、武を練り交代して登城し、殿の御機嫌を伺って、それぞれ定められた仕事に当たった。
また参勤交代の時にも一部の士は山中の各所から最も文武に勝れた偉丈夫を選抜したので誠に堂々たるものであったという。

代々の領主は、名君が続かれて、常に倹約質素をすすめられ困難な財政を治められた。
又神社、仏閣を建立されて家臣の精神の帰一をお計りになった。
再挙の為の入山とはいいながら落人の身はすすきの穂にも気がねする弱みがあったのであろう。
さすがに全盛と名家と正義を誇った流旗も巻きおさめ、甲冑を脱ぎ、陣太刀も鞘におさめ、深山を安住の地とせねばならなかったのである。

金城鉄壁、雲井にそびえた館にかえ、今日は竹柱柴屋の小屋に住い、
夕べには山の端に沈む日ざしを眺め、秋は牡じかの遠音に、ありし日の夢を偲び、或る時は、高嶺の日に無念の涙を幾度か呑んだことであろう。
自在鉤をつるした囲炉裏の傍らでたい松の炎の暗い影に軍書をひもとく様が彷仏として浮かんでくる。
さらに困難なのは生活であったろう、想像をすることさえできぬ岩くつや、木の房を一時をしのぐ仮屋とし、鳥獣や草木の実を常食としであろう。
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菊池の先祖

菊池は姓は藤原で正二位関白道隆の第三子隆道の孫則隆が後三条天皇の延久二年肥後国菊池郡に下向して菊池を稲した。
これが菊池氏の始まりである。
藤原隆家、隆家は鎌足から十三代の後である。
隆家は天元二年の誕生で父は中関白と稲せられた縦一位摂政道隆、母は侍縦二位業忠の女である。

当時藤原氏の権勢は頂上に遠し、遂に一門は権勢を争うに至った。
隆家もその一人で遂に京都に志を得ることが出来なかった。
自ら願って大宰府の師となり正二位に叙せられ、その治績もまたすこぶる見るものがあった。
延久二年藤原政則(隆家の嫡男)則隆は庇護の警護使として菊池に下向し菊池川のほとり深川村に居館を構え、地名菊池を姓として光輝ある菊池の基を為したのである。

菊池は九州の中央に位し、四方に高山又は丘陵をめぐらした天険の地である。
北に矢筈をはじめ、豊筑(豊前・豊後・筑前・筑後)国境の山岳が連なり、
東には馬の背のような鞍岳をはじめ大阿蘇の連山、豊境の山々が巍然としてそびえ、西には末野岳、木葉山の一帯の連峰が山鹿、玉名を境し、南には合志の丘陵が横たわっている。
菊池城址にのぼって眺むれば、この四山相呼応して守護するが如く、語る如く、もゆる大阿蘇の姿は菊池家の熱烈な勤王の精神をいやが上にも培ったものであろう
静かなる補山山の青山は、これ菊池の不動の姿である。
前は遥かにめぐる南方の蓮丘則隆がここを九州の京と稲して居館としたのも実にむべなるかなである。

この高峻と連山、連丘の包む菊池平野は土地肥沃、物資豊富の膏腴(こうゆ)の地で幾年戦ってもつきぬ兵糧を用意するに便であったに違いない。
菊池川、迫間川(まこま)、木の川は裏山の渓谷を発し、この平野を縦横に貫流している。
山柴、水又豊。天下の忠臣菊池家の精霊は実にこの地に生まれ出たのである。

この地は間道四方に通じて山を越えて豊前(大分県北部)豊後(大分県南部)筑後(福岡県南部)さては熊本と自由自在に通ずることができる誠に軍事上経済上重要な地で自然の城廊である。
南北朝時代には四囲の連山蓮陵に十八の外城を設けて武家方に対したという十八の外城の中にこの膏腴の平野を抱く菊池家がこの地に二十四代五百年の勢力を揮った決して偶然ではない。
この九州の中心、然も天険の豊しょう(豊かで多い)の地に着眠し、幾多の抱負を抱いて居館を構えた則隆は実に非凡英傑であったと言わねばならぬ
家系図に続く( ^ω^)・・・歴史って面白い





最後までご覧頂きありがとうございます。

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Commented by HN津々堂(眞藤國雄) at 2024-12-25 14:02
私は熊本の細川家家臣団の研究を20年ほど続けており、その成果をHPでも公開しております。
その細川家家臣の中に「米良氏」がおられ、すぎる年北海道へ移住されたご一族の事をご子孫の近藤氏(御母堂が米良氏)が
「肥後藩参百石米良家」(花乱社・346頁)を2013年6月に発刊されました。
その折、当方も色々資料をご提供するなどいたしましたが、残念ながら当時は米良家に関する資料が少なく、当該米良氏のご
先祖様に関することがあまり取り上げられずにおりましたことが、今もって残念に思われます。
私は細川家家臣・米良氏もその名乗りに「重」という文字をお使いになっていることから、菊池氏末裔の米良氏のご子孫だと
認識を強めております。宮崎の伊東氏に召し仕えた後、縁あって細川家に仕官されたようです。
今般偶然当サイトに米良氏に係る資料を拝見し、大変驚いた次第でございます。
出来ますことなら、系図など公開いただけないものかとご連絡した次第でございます。
もしよろしければ、コピーなど頂戴する訳には参りませんでしょうか。図々しいお願いでございますが御一考給わればありが
たく存じます。よろしくお願い申し上げます。
                        WEBサイト 肥後細川藩拾遺・主催
                                津々堂 こと 眞藤國雄(shinshindoh@gmail.com)

 
                                            拝
Commented by merapopup at 2024-12-27 07:34
☆HN津々堂(眞藤國雄)さん
おはようございます
コメントいただきありがとうございます♪

コメントのお返事はそちら様のHPにてDMを送らせていただきました

どうぞ宜しくお願い申し上げます
by merapopup | 2022-06-17 18:48 | Comments(2)
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